●明治二十二年の水害と戦後の治水対策  −富田川の災害と治水(その2)− 

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 平井堰と電力揚水口

 問題の井堰は、北富田村が保呂地区から下生馬に至る堰堤をつくったもので、保呂と内の川の広大な水田の灌水を目的にしていた。富田川に長さ一〇〇間(約180m)、幅三間(5.4m)、二分石を三段に積み重ねて堰止めたが、これだけの工事を施工するのに、周辺の村々に何の相談もしなかったから上流の村々の農民は態度を硬化したのである。上流の村々の農民は、富田川治水期成同盟を結成し、岩田村の竹中節をリーダーにして、上流住民の生活権を護るうえから、北富田村が施工した井堰の撤去を求める運動を展開した。期成同盟の主張は、富田川の治水の完備であって、井堰の撤去そのものに向けられていたのではなかった。すなわち井堰に代わる施設として電力による用水施設を研究して設置すればよいともいっていた。こうして、九月二八日に熊野林業学校で、上富田五か村の青年有志が会合して富田川治水問題について意見交換をし、富田川治水期成青年会同盟を設立した。

 一方、元県会議員であった田中音吉北富田村長は、平井堰は昔からあった湯口に井堰を設けたまでで、何ら上流には支障を及ぼさないのではないかといい、それよりも富田川に七つの橋があり、これが井堰以上の影響を与えていると主張して平井堰の撤去に反対を唱えた。田中村長は、富田川治水の根本問題は上流に完全な砂防装置を設けない以上解決することはできないだろうと考えていた。

 一〇月八日に富田川治水問題の現地視察のため県から土木部長、耕地課長のほか技師や西牟婁地方事務所と土木出張所の両所長らの一行は、関係各村の村民とともに流域を視察した後、朝来村の朝日屋旅館で、治水同盟、農民組合、青年団などの代表者約三〇人と田中北富田村長も交えて平井堰について話しあった。

 上富田側の農民は、田中村長ら北富田側と井堰の設置を許可した和歌山県の態度に対してきびしい質問をしている。延々と続く話しあいのなかで、土木部長は「富田川はタチの良くない川で、抜本的な対策を取りたい。技術的に確定的なことは、いまここで言えないが、相談して早急に両者の不満を最小限とした解決案を示したい」と発言して話しあいをまとめようとはかったが、治水について具体的な方策が何ら示されていないままでは、農民を納得させることはできなかった。熱っぽい話し合いが続いたが、この話し合いは解決の糸口が見出せず散会となり、以後富田川治水委員会を開いて協議することにした。

 昭和二一年一一月一九日付の『紀伊民報』は、「代替施設を設置井堰問題解決す」との見出しで、井堰問題の解決を伝えてる。西牟婁郡地方事務所で、県から耕地課長と地方事務所長、地元から北富田村助役(村長代理)と上流五か村の村長、竹中治水同盟委員長らが最終的な協議会を開いた。電動式揚水施設を設置して灌漑用水を汲みあげるようにした。

 このとき昭和二二年の用水使用時まで電力による揚水施設の設置費用は、県と北富田村が負担して上流の村々へは迷惑をかけないとする県の提案を村々は承認した。こうして富田川井堰問題はようやく解決した。