●明治二十二年の水害と戦後の治水対策  −富田川の災害と治水(その2)− 

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 治水と地域住民

 井堰問題の解決のため、地域住民の動きが大きな役割を果たした。岩田村の竹中節らが、

富田川治水組合会議録

富田川治水組合会議録

(昭和27年3月31日)

昭和二一年九月に富田川治水期成同盟を結成して井堰の撤去を主張したが、一方山本萬米らは、それと前後して撤去しない方法で総合的な対策を樹立する方法を唱え、県会議員当選後の昭和二二年に、流域の村長グループが中心となり、富田川治水対策委員会を結成した。また前富田川青年連盟委員長の町田達治らが世話人となって、技術的問題は技術者に任せ、二つの団体は、啓発団体として沿岸住民が一丸となって一日も早く解決できるように努めるべきであると主張して奔走した。

 こうして、昭和二三年六月二〇日に朝来村役場に関係者一同が集まり、今までの行きがかりや感情問題を富田川の水に流して大同団結することが解決の早道である。そして、対策委員会、治水同盟、青年聯盟からそれぞれ二名ずつ出して準備委員会を組織して、七月中ごろまで富田川流域を一丸とする治水同盟を結成することを決定した。

 平井堰が撤去されると、次にその下流にある大井、血深の井堰の撤去問題がおこってきた。この年十一月一六日、県耕地課長以下係官四名と二川以南の各村長、助役ら十数名朝来村農協に集まり、協議の結果、見積り価格約六〇〇〇万円で両井堰を全部撤去するが、この費用のうち65%が和歌山県、35%が関係者が負担する案が出された。

 だがこの案に対し、下流の富田側から川床を下げたり井堰を撤去するのは問題でない。その後にポンプを備えつけるというが、予想以上の経費を要する場合、この維持をどうするかが問題であると申入れがあり、上流の各村長も村民にはかってみたいと解答した。

富田川 市ノ瀬畑山付近(昭和50年ごろ)

富田川 市ノ瀬畑山付近(昭和50年ごろ)

昭和二六年二月、二川、栗栖川、鮎川、岩田、朝来、市ノ瀬、生馬、東、西、南、北の四富田と白浜の一二町村で、富田川治水に関する事務を共同処理して治水の実現をはかるための富田川治水組合が結成された。歴史的な大団結であった。組合事務所は管理者所在町村役場内に置いた。組合の経費は分担金と寄付金でまかなうことにした。

 その後も富田川は、大雨が降るたびに悩まされた。『紀伊民報』は、富田川の水防強化のため村民大会を開いたが、一八日に視察に訪れる小野県知事にその対策の陳情を行った。彦五郎堤防の完全補強、富田川の井堰の撤去、土砂の排除、水害箇所の復旧、上流砂防および堰堤の完全施工、永久堤防の構築、工事費の全額国庫負担など七項目の早期完全実施を要望している。その年の七月一八日、九月二五日と二度の大洪水からまぬがれたが、川床は人家の軒より高くなっており、農作物の冷水害も年々被害を増していた。また雨が降るたびに荷物を背負い、老人の手を引いて逃げまわる状態もまだ続いていた。こうした難問は、早急に解決していかなければならない課題でもあった。

 富田川に堆積した土砂の排除には、一億一七〇〇万円の工事費総額で、昭和二九年度継続事業として実施されたが、ようやく富田川の治水対策のための具体的な施策が始まったのである。

○参考文献

  『上富田町史』史料編上  (上富田町平成七年)

   上同書  史料編中    (上富田町平成元年)

  『和歌山県史』近現代一 (和歌山県)

   上同書        近現代二 (和歌山県)

 ○執筆:笠原正夫  

      (鈴鹿国際大学講師・上富田町史専門委員)