●上富田町域の神社合祀強要する県と住民の対応  −岩田村と市ノ瀬村− 

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 まえがき

稲葉根王子跡

稲葉根王子跡

 明治政府は、明治初期に神仏分離と神社の国家管理をすすめた。明治四年五月十四日付「官社以下定額及神官職員規則等に関する大政管布告」を発し、神社を神祗官所管の官社(官弊社と国弊社)と地方官所管の諸社(府県社と郷社)に分けた。そして、村社は郷社の付属とした。

 明治元年三月十七日の神仏分離令により、社僧の神仏奉仕を禁じ、四年五月十四日には「神社は国家の宗祀」という、明治維新政府の神社観により、神職の世襲制を廃止し、神職精選補任の原則を定めた。そして府県社以下の神職は、府県社と郷社に社司・社掌を、村社・無各社に社掌を置き、判任官待遇官吏として地方長官が任命権をもった。

 明治四年七月四日に「大小神社氏子取調規則」と「守札差出方規則」を公布し、村民に氏子守札を公布する神社が村社とされ、戸籍制度と氏子守札制度が結合し、明治五年の壬申戸籍の上段欄外には、氏神神社名を記載するようにした。

 神社が国家体制の中に組み込まれ、国家の宗祀とし祭祀するには、国家・地方経済(財政)では困難であるという論説があらわれ、神社合祀が主張されてくるのである。

 明治三十四年第一次桂内閣の全国地方長官会議をうけ、和歌山県知事は郡市長会議で「神社の合祀を誘導するの件」という訓示をしている。和歌山県では全国に先駆けて神社合祀の取り組みをはじめたのである。

 全国的に神社合祀のはじまった明治三十九年には、政府の調べで十九万三千余社あった神社が、明治末年には約十一万社に整理されていた。しかし、神社合祀も府県によって疎密があったようで、神祗院編『神社局時代を語る』に「三重県・大阪府・和歌山県が最も激しいので……京都では殆どやらない……全国皆やってしまったら私の所もやる。それ迄待っている」と、京都府知事であった大森鐘一氏が語ったと記している。これに反して最強行に神社廃合を推進した和歌山県では、明治三十九年に和歌山県の調査した神社数は、『和歌山県誌』によると三七二一社であったが、明治四十五年の『和歌山県統計書』では四六八社と、八七%の三二五三社が整理廃合されているのである。これは、全国平均の廃合神社率四三%に比べて、倍以上の強行廃合であったことを如実にに示しており、如何に激しいものであったかを物語っている。

 このような強行廃合の推進にあって、村々では、神社合祀にどう対応したかを確かめてみよう。