●上富田町域の神社合祀強要する県と住民の対応  −岩田村と市ノ瀬村− 

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 市ノ瀬村の神社合祀

春日神社

春日神社

 市ノ瀬村後代に鎮座する春日神社は、明治六年四月に村社に列格した。氏子数は二九四戸であった。境内には三柱・稲荷・日吉・厳島・天満の五社が境内神社として祀られ、各字には「無格社字宮」が十一社祭祀されていた。

 市ノ瀬村の神社も四十年三月十五日付『牟婁新報』が、「市ノ瀬村は村社一、無格社十一社あるが、村社春日神社の境内に合併の協議は不日纒まる可し」と報じているとおりに、「明治四十年三月廿三日、同村大字、春日神社へ合祀許可」され「四十一年十一月十五日、合祀済届出」のなされたことが「明細帳」に記されている。

 合祀された字神は境内神社の厳島神社へ畑山・大芝・汗川の厳島神社が、稲荷神社へ中ノ岡の稲荷神社・下ノ岡と宮ノ尾の地主神社・小山の日神社(一ノ瀬王子)が、天満神社へ両平野と根皆田の八坂神社・両平野の天神社と大神社・後代の金毘羅神社が合祀された。

 しかし、字神の合祀は南方熊楠がいっているように、「当郡は合祀とは名のみで、一寸も合祀せず、表面合祀願い出し、合祀式をすませたとの届けのみで、合祀余りせずに済む事と相成り居り」という状態であったようである。

一ノ瀬王子跡

一ノ瀬王子跡

 谷本圭司「上平野大上宮輪番記と講田規約紹介」や「一ノ瀬王子春日神社の棟札紹介」などによると、上平野字宮「大上宮」は春日神社へ合祀されたにもかかわらず、祭典は合祀後も旧社地で当屋によって毎年執行されていた。明治四十二年は旧十一月一日に執行されたが、四十三年以後は毎年十二月五日に祭祀され、祭典費は講田の収穫を充てていた。

 講田の小作は、毎年交代で「大上宮社祭典式挙行スル当番之者」へ委託する規約となっていた。大上宮社講田の宅地は上平野中、田と山林は上平野組中としていたが、 明治二十八年に地租微税上不都合であるという理由で、信徒連名の共有地に更正し、所

有権歩合八厘八毛づつの平等分け持ちとした。そして、講田規約を作成して、「大上宮講者保存函」で保管し、地租・諸税は祭式挙行当番(当屋)が上納するきまりになっていた。こうして、大上宮は春日神社に合祀されたが、講田という字宮の財産は、信徒の手元に残されることになった。合祀によって被合祀社の財産=境内地・立木・宮田などは、合祀社の基本財産に組込まれることになっていたのであるが、字宮の財産は信徒によって分割所有されていたから、現在に至るまで、信徒は毎年交代で当屋を勤め、合祀された十二月五日を字宮祭りとして、祭典を挙行している。

大上宮輪番記(上平野)

大上宮輪番記(上平野)

 聞き取りによっても、いくつかの字宮の旧社殿・社地は合祀後も存置し、それぞれ講田の収穫をもって祭典費として、村社春日神社の祭礼とは別に、信徒が字宮ごとに集落の祭祀を執行しているといわれる。これは遥拝所の設置や旧社の祭祀を禁じて認めなかった国や県の方針にかかわらず、被合祀社の信徒住民が表現した生活感情であり、遥拝所=旧社地へ字神を迎えて祭祀することは実質的な複祀を意味しているといえる。そして、最末端の内務権力であった駐在巡査も黙認していたことが各地で報告されており、市ノ瀬村も同じであったと思われる。

 市ノ瀬村でも字宮を村社へ合祀するという、国や県が強権で推進した合祀政策にしたがって、「合祀済届出」を明治四十年十一月十五日付で県知事へ提出し、「神社明細帳」という公簿上では合祀が完結したことになっていた。けれども住民は旧社地で従前どおりの祭祀を行っていたのである。権力が住民の生活感情の中に息づいている神社信仰を奪おうとしても、厳然として旧社地は固守され、祭祀も執行されていたのである。正に自分たちの集落の神は自分らで祀るという、権力の画一的形式的な神社政策に対する、無言の抵抗であったといえる。だから、戦後、旧社地へ複祀する神社の多かったことは、自分らの神を取り戻す運動であったといえる。

○執筆:廣本 満 

      (前上富田町史編さん専門委員)