●龍松山城と山本氏  −秀吉の紀伊平定−@

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動乱の進展と山本氏

 全国的規模で見れば南北朝の動乱は、諸戦で楠木正成・新田義貞ら南朝方の有力武将が戦死したこともあって、おおむね幕府(北朝)方が有利に事を運んでいた。しかし、幕府も一枚岩ではなく、内部で高師直(将軍足利尊氏の執事)と足利直義(将軍足利尊氏の弟)の確執が表面化した。観応元年(一三五〇)、両者の対立は観応の擾乱と呼ばれる幕府の分裂に発展し、足利尊氏が足利直義を討つために南朝と和睦したこともあって、南朝が息を吹き替えすこととなった。紀伊では守護畠山国清が足利直義方について罷免されたため、幕府方の勢力は、大きく後退することとなった。

 正平七年(一三五二)二月、後村上天皇は京都を奪回するための軍を起こし、摂津住吉(現大阪市)に進んだ。その際、湯浅氏・山本氏・熊野八庄司らが路次を警護した。同年閏二月十九日、後村上天皇は八幡(現京都府八幡市)に進み、翌二十日、南軍は念願の京都に入ったものの、三月十五日には足利義詮(尊氏の子)に京都を奪い返され、南軍は八幡に退いた。以後、八幡をめぐっ

 龍松城(二の丸)
  龍松城(二の丸)

て、幕府軍と南軍との一進一退の攻防戦が繰り広げられた。四月二十五日の佐羅科(現八幡市)の戦いで、山本氏は湯浅氏や楠木氏・和田氏の軍勢とともに、奮戦したと伝えられている。八幡の攻防戦は、南朝方の兵站が続かず、五月に入ると、湯河氏らが相次いで幕府方に降った。五月十一日、幕府軍の総攻撃が敢行され、四条隆資らが戦死たが、後村上天皇は脱出に成功した。その際、天皇は山本判官の進めた黄糸の鎧を着用して栗毛の馬に乗馬したと、『太平記』に記されている。 
 南朝方の山本氏らと、幕府についた湯河氏は、この後紀伊でも戦った。文和元年(一三五二)十月二十三日、足利義詮は湯河光種の牟婁郡岩田や日高郡河上(現美山村)での戦功を褒している。ただし、紀伊では湯河氏のような幕府方は少数派であり、南朝方が優勢であった。そこで幕府は、紀伊守護に再び畠山国清を起用した。延文五年(一三六〇)四月、畠山国清は弟の義深らとともに紀伊に進攻した。対する南朝は、竜門山(現粉河町)一帯に攻防戦を敷き、山本氏ら紀南の軍勢も加わって、これに備えた。閏四月、畠山国清らは苦戦の末に竜門山を攻略して、湯浅党の根拠地有田郡に軍を進め、五月には畠山義深が牟婁郡富田にまで進出した。

 このころから幕府内部の対立が表面化し、延文五年七月には仁木義長、康安元年(一三六一)九月には細川清氏、同十一月には畠山国清と相次いで失脚した。これに乗じて各地で南朝が蜂起し、紀伊では山本氏が湯浅氏らとともに、幕府方の湯河氏と戦っている。細川清氏・仁木義長ら幕府の隆将を迎えて勢いに乗る南朝は、山本氏や湯浅党も加わって、康安元年十二月、四度目の京都奪還を果たした。しかし、前三回の時と同じように南朝に京都を維持する力は無く、一月と持たずに幕府軍に奪回されてしまった。紀南でも南朝と幕府との戦いは続き、正平二十二年三月八日の田辺口の戦いでは、南朝方の山本是斉入道らが討ち死にしている。 

 応安年間(一三六八〜七五)になると、全国的に南朝は衰退していくが、紀伊の南朝はこの後も活発に活動した。しかし、山名義理が紀伊守護となった永和四年(一三七八)十二月以降、紀伊の南朝は退勢に向かっていく。そのため、明徳二年(一三九一)に起こった明徳の乱で南朝は、目立った活動はしていない。そのような状況下の翌三年閏十月、南北朝は合一した。