●上富田町の地名  −無形文化財としての地名

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 地名とは

 地名とはその土地の位置や特徴を表す言葉で、一つ一つの意味がある単語で表している。地名は『風土記』に「山川原野の名号の所由」といわれているように、基本的には地形の特徴を表したもので、その土地の情報を提供しているものである。だからといって一つの土地に一つの地名しかないというものではない。同じ位置でも地名が違う場合がある。世界最高峰のエベレスト山とチョモランマ、ヨーロッパ最高峰のモンブラン(フランス)とモンテビアンコ(イタリア)、日本では秋田県と岩手県の県境にある乳頭山と烏帽子岳などたくさんあげることが出来る。  

陸橋付近から旧大沼をみる 
 陸橋付近から旧大沼をみる

 さらにまたわれわれの周りには、いくつもの地名があり、しかも重なっている。つまり一つの地点に地名が重層化しているのである。たとえば朝来地区の糠塚では、糠塚という小地名の上に大内谷の地名が覆い、さらに朝来、さらに上富田町、西牟婁郡、和歌山県、近畿地方、日本国、東アジアと幾重にも重なっているのであるから、糠塚という地名の上にはたくさんの地名がある。逆に言えば糠塚は、これらの地名の最下層を支えている地名であるといえよう。これは糠塚だけではない。中嶋も宮ノ尾も田熊も小西もどの地域も同じで、どんな小地名であっても、近隣・家族の二、三人しか通用しない私称地名であっても、その上にたくさんの地名が重なっているのである。したがって地名は無限大であり、無数に存在するのである。そこで一般に地名はどのくらいありますかと聞かれても、小字数とか市町村数とか限定されない限り、その質問は愚問としかいいようがないし、答えようがない。

 ところでこれら無数の地名は一斉に、ある時期に命名されたものではない。地名はいつもどこかで生まれ、いつもどこかで消滅している。今ここにある一枚の地図、一つの空間には、新しい地名もあれば、古代から生き残った由緒ある地名もあって、新旧混在しているのである。そこでそれらの地名は、命名された時期や空間やその拡がりから次の三つに分けられる。

 一、地名の意味や由来が簡単にわかるもの。

 二、すこし考えると地名の意味や由来のわかるもの。

 三、たくさんの歴史書や多くの古老に聴いても語源がさっぱり分からないもの。

 一は、比較的新しくつけられた地名で、行政地名に多い。この場合、地名命名の経過記録が保存されているところも多く、また記録保存がなくとも、その命名の携わった人の記録も鮮明であるので容易に地名の由来が理解できる。命名に至った経緯は、住民アンケートによるのか、専門委員の協議によるものかという命名方法もほとんどが記録に残しているのでよくわかる。記録がなくとも四国中央市であれば、四国の中央に位置するところにある行地域であるということを示しているし、伊豆市(静岡県)、西東京市、魚沼市(新潟県)や湯布院の由布市(大分県)はブランド地名として、その他東郷池から湧く温泉、大地がはぐくむ二十世紀梨、日本海に広がる砂浜をイメージしたという湯梨浜町(鳥取県)、桜の名勝地で日本の国花でもあるという理由で命名されたさくら市(栃木県)等、由来のわかる地名も枚挙にいとまがない。

 また、御坊市のように、創作された時期がかなり古いものであっても歴史的由来が明確であって、現在に至るまでほとんど変化のない地名も容易に理解できる。十分読み取ることができる。御坊市の起こりは、文禄四年(1595)この地に再建された浄土真宗寺院の本願寺日高別院がもとである。「御坊」とも略称される同院の僧侶の指導のもと、堀や川で集落を囲む防衛的なマチ建設をおこなってできた町であることから、この御坊市は寺内町に由来する地名であることを理解するのは容易である。さらに紀ノ川の渡河点であり木食上人の架橋によるという伝承を持つ「橋本」地名など、由来の明確なものもいくつかある。

昭和30年ごろの朝来地区 
 昭和30年ごろの朝来地区

 上富田町という行政地名は新しいものであり、昭和三十一年(1956)東・北富田村を合併し、新しく生れた富田村(現白浜町)とは富田川で結ばれ、その富田村の上流部にあたるという意味でつけられている。「市ノ瀬村文書」(『上富田町史資料編中』所収)によれば、「凡て富田川の流域にあり、富田川に因み古くよりこの地域を上・下に分かちて、上富田・下富田と呼ばれたり、茲に岩田・市ノ瀬両村は上富田地区に相当するため」と明確にその理由を示している。また、下鮎川も新しい地名である。昭和三十一年、市ノ瀬村に編入する際、旧鮎川村から分離したところは鮎川地区のなかでも下手に位置するということから、下鮎川という地名として新たに生れた。旧地名の「加茂」を変えてでも下鮎川にしたのは、この地区が鮎川村に属していた事実を明確にしておきたい意向もあったのだろう。この下鮎川も一に分類できる。

 二の項目の「すこし考えると地名の意味や由来のわかるもの」については、主に明治以降につけられたとか、命名当時の景観が残っているところとかに多く見られるやや時代の古いものではあるので、すこし努力をすれば地名の由来がわかるものである。そのほとんどは町村合併等で旧町村名の一部をとった合成地名である。たとえば、海草郡は、海部郡の「海」と名草郡の「草」をとってつけられた地名であり、長野村(上長瀬村+伏菟野村+馬我野村の「長」と「野」を合成したもの)、近野村(近露村+野中村+道湯川村の「近」と「野」を合成したもの)や新万(新庄地区と万呂地区の「新」と「万」)などその例も多い。すさみ町も(周参見+見老津+江住+佐本)四地区の合併に際し、『すさみ町誌』には誤読を避けるためにひらがな地名にしたとあるが、それぞれの合併時期は違うものの、周参見の「す」、佐本の「さ」、見老津の「み」をとってつけたようにみえる。たとえそれを意識していなかったとしても、結果的には合成地名のようになってしまい地名の啓蒙書などにはそのような解釈で紹介されるかも知れない。

 地名は地形的特徴からつけられた例が多いが、その地形的特徴が今も残っている場合、たとえ残っていなくともその地名が明確にその地域の特徴を捉えてさえいれば、その意味も比較的容易に理解できる。たとえば、朝来の「大沼」である。南方熊楠が埋め立てに反対した沼地がそのまま地名として残したので、景観的にはまったく残されていないが、陸橋から眺めてみるとそこが元沼地で湿地帯が広がっていたことが想像できるのである。

 三の項目がもっとも地名数も多く、難解である。時間が経ちすぎていることと、地名は本来、土地の位置や情報を示すコミュニケーションの一手段であるものの、いつしかそれを軽視し、記号のように取り扱い、意味や由来を継承しないまま歴史を経てきたために、そのほとんどが最初のメッセージの意味が伝わらず、位置は多少わかるところがあっても、情報としての役割は完全に消滅してしまっているからである。

 地名は生き物であり、新しく生まれたりいつの間にか無くなっていたり、時には位置を変えたり、成長して大きくなったり、変化したりしている。だから、命名当時の地名がずっと当時のままの位置に止まっているとは限らないし、聞き間違い、書き間違いからによる変化も多い。

 たとえば、上町台地に坂が多いことから、多い坂→小坂・尾坂→大坂→大阪と変化した大阪地名の変遷の例や、補陀落山→二荒(ふたら)山→二荒(にこう)……弘法大師が音読したという説……→日光という例や、二荒山神社の別称「現宮(うつつのみや)」が宇都宮に、「一宮」→宇都宮になった説等さまざまな説が飛び交っている。

 そこで、それぞれの変化のわかる資料や伝承が残っていれば、それが手がかりとなって、地名の移り変わりが説明できるのであるが、それら編年的史料の残存率は皆無に近い。そこで、全国から類似地名を探してそこを踏査し、共通点を見出してみたり、地形図や古図、絵画などから古地名と現地名の関係を比較して共通性を探ったり、方言や民俗をはじめその意味をさまざまな方法で、地名の発信点を探っている。そうしてどのような意味で情報発信されたのか、そのルーツをいろいろな手段を駆使して探っていくのであるが、そこにロマンがあり、地名探索の妙味があり、地名探究の本領域でもある。それがこの三である。

 上富田町の旧村名をみても一つとして、その由来を明言できるものはない。だから、その未知への探究に胸躍り、怪しい魅力とロマンを感じるのは筆者一人だけではあるまい。

 田辺市三栖の住民が上富田町に勢力をのばしていた一つの例とされていた岡地区普大寺そばの「三栖谷池」は、古くから三栖谷池と呼ばれていないことがわかった。正徳五年(1715)の「岡村新田検地帳」に日ノ熊の「水谷池上」とか「水谷池奥」とあり、「水谷池」から転訛して「三栖谷池」となったのである。このことからこの池名が三栖の人の上富田進出の証拠にならないことが理解できる。