●上富田町の年中行事  

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 虫送り
 虫送り
 虫送り

虫送りは稲につく虫を追い払うための行事であった。明治大正のころまでは、全国のどこの農村でも行われた。稲作への虫の害は深刻で、何とかこれを防ごうとして、神仏に祈祷し、そのあと行列をつくって植えて間もない田園を巡るのである。

 紀南地方では、ふつう六月の初丑の日に行われ、先導するのは大人であるが、子供の行事になっているところが多かった。笹や松明(たいまつ)を持ち、鉦や太鼓を鳴らし、時にはほら貝を吹いたりして、列をつくって進んだ。その時唱える文句は「虫も蝿も飛んで行け、実盛さねもりさんのお通りじゃ」で、これが岩田方面の唱えであるが、どこもだいたい同じであった。たいてい村境まで送って行くが、生馬などでは「飛んで行け」を「富田へ行け」と掛けていて、他村へ追いやろうとするつもりもあった。
 ところで、大正四年(1913)に脱稿した『朝来村郷土誌』を見ると、神社の項に、明治の初めまで岩崎の野田に虫逐むしおい社があり、六月の丑の日に、農民たちが各自笹を打ち振り、鉦を叩きほら貝を吹いて、各谷々を回り、下野田の川原で笹を川に流し、御酒を戴いて退散したと記している。酒を戴いたとあるところをみても、これは大人の行事である。

 その時虫追いに唱えた文句も「虫も蝿も飛んで行け、羽のないやつは這っていけ、羽のあるやつ飛んで行け、さねもりさんのおんとりえ、ぶー」としている。「さねもりさんのおんとりえ」は、実盛さんのお通り、ととれるが、もとはおそらく「おん弔い」であったのだろう。それに、この唱えは形式化される前の素朴さがあり、四国や熊野の山村で唱えられたのに似かよっていて、古いかたちのものであろう。

 斎藤実盛は田の中で討たれて稲の虫になったという伝承があり、その霊を弔うことによって、害虫を防ごうとする農民の願いがこめられていたのである。