●富田川に架かる上富田町の橋  

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紀南の橋の歴史

 『熊中奇観』には、田辺の江川にかかる大橋も小橋も欄干つきの立派な橋として描かれている。さらにまた、芝村(現田辺市中辺路町栗栖川)から潮見峠に至る間に川が描かれ、その上に東京の小石川後楽園の「八つ橋」のように板を継ぎ足すように架けた「桁橋」が描かれている。しかしこの橋は仮橋であったのだろう。「芝川(略)巾一二間歩渡なり一に足川といふ水出るときは舟渡となる」(『紀伊国名所図会』)とある。

 嘉永六年刊行の『西国三十三所名所図会』には、会津川河口に擬宝珠欄干つき板大橋と、欄干つき小橋が描かれている。立派な橋のようである。この橋は、慶長十八年(一六一三)「田辺大橋浅野殿御懸当年始板橋」(『田辺万代記』)とあることから、浅野佐衛門佐氏重によって田辺城下町が形成されるころには存在していた板橋で、田辺城下の玄関口に位置していたため豪華な装飾も施されていたのだろう。

 架橋する場合、流れの部分だけに板などを渡す流れ橋様式と、しっかりした護岸堤防から対岸の堤防までを繋ぐ方式とがあるが、とくに川幅が広く、流れの速いところでは流れ橋様式以外の架橋はむずかしかった。市ノ瀬には清水川に架かる清水橋(長さ四間三尺板橋)は、少なくとも明治初期には架けられているし、汗川の登尾橋(長さ五間余四尺板橋)、岡村では日隈川の大橋なども同様であった。しかしいずれも支流で、川幅も狭かった。本流に架けられるのはかなり遅くなってからである。

 上富田町社会科資料作成委員会の『私たちの上富田町』(昭和五十二年刊)には、本川である富田川には加茂橋・市ノ瀬橋・上岩田潜水橋・岩田橋・生馬橋・郵便橋が紹介され、「その昔は、鎖つなぎにした板橋がかけられ増水時には、底の浅い川舟の渡し舟が使われていた」とあり、近代に入っても橋と渡船の併用であった。

 本川に橋の設置の遅れた理由に筏流し、管流しもあった。明治十六年(一八八三)に次ぎのような文章が布達されている。

一.富田川 筏 長さ三間もの十床以内 幅八尺以内 一人乗り 
  但し、筏 長さ三間もの二間ものを取交うる時総長三間を超過すべからず

  其総長三十一間以上十間を加うる毎に乗夫一人を増すべし。

(『わかりやすい四富田村の歴史』)

 これは、橋や井堰の損傷を最小限にくいとめようとした規定であった。