●富田川に架かる上富田町の橋  

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橋の管理規制や橋にまつわる話題

 橋の管理は明治になって以下のように規定された。

明治七年頃のものと推定される「田辺新宮営繕市街邸宅並道路修繕規則」(『和歌山県史』近現代史料 八所収)の一〇条には、橋梁の掃除は各区(当時は大区小区制の時代)の役所で取り締まり、橋の広さや通行量の多寡から月々の掃除の回数を決めよ とある。今の私どもの感覚ではここまで細かく規定しなくてもいいのにと思うほどである。

 また明治十年の「道路堤防其他管護心得」には、橋の新設や廃止には県庁の許可がいるとし、その橋の管理は地元で行い、橋の小さな破損は速やかに修理し、大きな破損は区戸長の現地調査を受け判断を仰げとしている。災害などで修繕が遅くなりそうなときは、目論見帳(見積書)に理由を明記して県に提出して裁可を仰ぐこと。橋梁が落ちてしまい日常生活に著しい影響を与えるようであれば、区戸長の判断で応急処置として仮橋等を造ってもよい、としている。

 さらに明治十五年(一八八二)の和歌山県令の布達の中に、「人民私費ヲ以架設ノ橋梁渡津及私費開鑿道路」を通行する憲兵や郵便配達夫は所定の服装(制服)をしているので、その場合は通行料をとってはならない(『和歌山県史』近現代史料二)とある。公道であっても公衆の便益のために架橋を私費で行ったのであれば、通行料を取るということも許されていたのだろう。

 近代になっても橋は堅牢なものではなかったことが、大正二年(一九一三)の和歌山県令第九号「自動車取締規則左ノ通定ム」(『和歌山県史』近現代史料六)からわかる。その規則第一章第六条によれば、「街角橋上阪路又ハ人家稠密ノ場所若ハ往来雑踏ノ場所ニ於テハ歩行者ト同一ノ速度ヲ以テ徐行スヘシ」とある。今では橋の上での徐行などは考えられないが、橋の狭さや橋脚の脆さなどを考慮してできた規則であろう。

 この布達のような内容は、近代初期のものだけではなかった。「紀伊民報」昭和二十三年九月二十六日付に市ノ瀬橋で通行料を取るという記事が出ている。その理由は牛馬車の交通量が多いことと、増水のたびに橋桁が緩んで危険であり、その修復費として、市ノ瀬村当局は苦肉の策を打ち出した。その策とは、二〇〇貫(七五〇kg)以上は一回につき五〇円徴収することである。近代初期の橋梁管理方法が戦後になっても生きていたのである。