●富田川に架かる上富田町の橋  

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加茂橋

富田川左岸からみた加茂橋(平成20年)

富田川左岸からみた加茂橋(平成20年)

 国道三一一号と県道下川上牟婁線を結ぶ橋に架かる橋を加茂橋という。

 明治初年の『鮎川村村誌』には、「御所瀬橋 橋二〇間、一尺三寸の板橋仮架ス とあり、宇立橋 橋三〇間、幅一尺五寸 合川橋 橋一〇間 一尺二寸の板橋仮架ナリ」とある。合川橋の位置はよくわかっていないが、他の二橋は富田川本流に架かる橋と考えられる。この中には加茂橋の名はない。しかし、宇立橋など架橋されていたとはいえそれらの橋はほとんど機能していなかったのだろう、前記『村誌』には、「舟 日本型船五艘 五〇石未満川艜」とあり、長さは五間(九m)と四間(七.二m)の舟であったという。さらに旧鮎川村の公文書録を見れば、明治二十七年(一八九四)の加茂、宇立の渡船料として二円計上しているが、橋に関する記録はない。これは橋が木造の仮僑であったため洪水で流失し再び渡船の時代に戻っていたことを表しており、あるべきものがなくなるとかえって利用客は昔以上に不便を感じたのではないかと思う。その後公文書録に橋の名が出て来るのは、明治三十二年(一八九九)で杢路石二箇所 橋一円とある。そして同年から橋番一円とあることから、橋の管理費を計上したものと思われる。

 橋番とは、大塔村村史編纂委員である洞口久善氏によれば、板橋が洪水で流されそうかどうかを観察し、橋が通行できる状態かを判断して的確に情報を発信したり、橋が流されれば、水の引くのを待って仲間と共に再架橋したり、修復したりする仕事・役割のことで、地域の村人が輪番制でその大役をはたしたのだという。

 明治三十六年(一九〇三)に加茂橋に四円、宇立橋に三円を建設補助費として計上しているから、この頃初めて加茂地区に架橋されたと考えられる。同四十年から加茂橋番五十銭とあり、大正二年(一九一三)からは、加茂橋番を四円と急増している。

 旧大塔村の橋は、昭和四年まで本格的なものではなかった。そこで常水時には幅一尺二寸の仮板橋で交通できるが、洪水時は渡船に頼らざるを得ないので架橋して欲しいと申請し、翌五年十二月に木造の欄干・橋脚の鮎川橋が完成している。これは、富里地区との物資の輸送交流に重きを置き、その重要性を県も認めたため即決されたのだろう。

 加茂橋は、明治三十二年には出来ていたが、木造ゆえ再三の洪水で流失等の被害に遭った。そこで安心安全な加茂橋の必要性を住民は訴えた。やっと村民の希望が叶い竣工出来たのが、昭和三十年(一九五五)であった。竣工式には鮎川小学校の教職員や児童も参加し、旗行列による渡り初めをしたと『学校沿革史』にも記録されている。

 現在供用している橋は、旧橋の九〇mほど上流に架設されたもので、旧三川村等の「五村」道への入口(鉛山口)から大きく離れた。昭和四十三年に着工し、同四十五年(一九七〇)に竣工。延長一六八m、幅員四mで、工事費が七一八〇万円うち国費が四七九〇万円。起債が一四〇〇万円、残りを上富田・大塔両町村で負担した。しかし立派な橋ではあるが幅員が狭いため、自動車の対向が出来ない。そこで中程に退避箇所を設け、交通の障害に対処するようにした。もともと加茂橋は旧鮎川村内にあったので、昭和三十一年まで鮎川村で管理していたが、昭和の大合併で、鮎川村が三川、富里地区と合併する際、加茂地域(現下鮎川)を鮎川村から分離し、市ノ瀬村の一部に編入したため、橋はほぼ真ん中で大塔村と上富田町の境界をなすことになり、以後両町村でこの橋の管理運営にあたっている。