●富田川に架かる上富田町の橋  

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市ノ瀬橋

新装なった市ノ瀬橋と右は撤去前の市ノ瀬橋(平成20年末ごろ)

新装なった市ノ瀬橋と右は撤去前の市ノ瀬橋(平成20年末ごろ)

 明治初年の『市之瀬村誌』には、「日本型舟一艘五十石未満川艜富田川 緩流にして水清し 舟筏通じ 堤防あり」とあって、橋についての記載はない。というのも、「渡し」が発達していたからで、そのため市ノ瀬に本格的な橋が架かるのがかなり遅れたのであった。しかしその橋も貧弱なもので、狭い板を繋ぎ合わせ、向河原へ板を渡しただけの粗末なものであった。だから、わずかな出水でも橋は使えず、たとえ大人なら渡れても、小さな子供たちは恐怖で渡れないときもあり、転落して溺死する児童もあったという。また交通途絶のために春日神社の祭礼にも支障を来すこともあった。そこで村を挙げての恒久橋設置運動を展開していくわけである。

 川舟から恒久橋へのいきさつについては、市ノ瀬在住の故中瀬信一郎氏の「上富田町誌編さんだより」(昭和五十八年三月二十八日付)に詳しいのでそれを参考に整理しておこう。

 船底が平らになった艜(ひらた)舟が市ノ瀬公民館に保管されている。これが昭和十八年(一九四三)まで舟行していた渡し舟である。この舟で出水時に渡し賃五〜十銭を払って対岸まで渡してもらっていた。ただこの渡し守は専任者であったのかどうかは書かれていない。地域住民は渡河のたびに運賃を払ったのではなく、春は麦二升、秋は米1升を各戸から徴収し、舟渡手当として渡し守に支払った。これを「しょうまい」といったが、中瀬氏は「舟米」を訛ったものだと推測している。昭和十七年には食糧事情の悪化と食管法の統制から、米で支払えず、金に換算し、当時市ノ瀬村の戸数二四三戸であるので一五五円五三銭を徴収し、渡し守であった赤木氏に支払ったという。

 ところで村の機能の安定性や村民の利益を考えると恒久橋の早期架設が村民の重要課題であり、役所や選出議員に実現を訴えつづけた。その願いを、幅三m、長さ二一〇mの木造橋として叶い、昭和十八年三月に架橋竣工した。しかし、昭和二十六年、同三十八年の洪水で破損し、その都度修復をせざるを得なかった。そこで、より強固な恒久橋の架橋が必要となり、時の町長山本万米氏の尽力で、長さ一七三m 幅員四mのコンクリート橋が昭和三十九年七月に竣工した。

 この橋は、国道三一一号と県道下川上牟婁線を結ぶ橋(町管理)で、幅員四m 長さ一七三mの鋼鈑桁のコンクリート橋であったが、耐震性や老朽化、交通量の増加による幅員の不足から平成二十年十月、旧橋の少し上流に長さ一七二m、幅員一一m(車道六.五m、歩道三m)の壁式橋脚として総事業費約十億円で架けられ、役目を終えた旧橋は同年取り壊された。