●富田川に架かる上富田町の橋  

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岩田橋(三宝寺橋・田熊橋ともいう)

新旧の岩田橋(昭和42年ころ)

新旧の岩田橋(昭和42年ころ)

 県道下川上牟婁線、県道岩田保呂線と国道三一一号を結ぶ橋である。明治四十年(一九〇七)八月二十一日付『牟婁新報』によれば、三宝寺橋とあって、八月十八日に竣工渡り初め式が行われた。幅九尺五寸(二.九m)、長さ四二尺(一二.六m)で、一坪当たり四〇〇貫(一.五トン)の重量に耐えられる堅牢な橋で、毎日木炭や板を積んだ荷車が一〇〇台通ることを予想して造られたという。県内では海南の日方往来に次ぐ交通量との見解である。総工費五〇〇円の板橋であった。

 昭和七年(一九三二)刊行の『岩田村誌』の大正六年合併問題決議録のなかに、「田熊橋は現在修理中 加設を加えて児童の通学を便ならむ」とあるように、田熊から岩田小学校に通う児童の通学路にも利用されたが、渡るたびによく揺れ、バランスを失えば川に落下する危険もあった(『上富田町史 通史編』)。洪水の時は渡し舟で通ったという。

 平成十九年刊行の『岩田村のあゆみ』に昭和三十年代の岩田橋の写真がある。木造の橋脚で欄干つきである。しかし、同書に年代は書かれていないが狭くて欄干のない木造の板橋を子供達が渡っている「田熊からの通学風景」の写真もある。『上富田町史 通史編』には、本格的な岩田橋が竣工したのは昭和二十六年のこととあるので、この通学風景写真の方が古く、戦後すぐのころの風物を写しているのではないかと考えられる。

 総工費二六〇万円で昭和二十六年(一九五一)に完成した岩田橋は、長さ二四三m、幅三.三mの木造橋であった。木造であったので洪水の被害をしばしば受けた。『岩田村のあゆみ』に、乗用車が橋の上で宙づりになっている写真があり、昭和三十三年とあるので、二十六年竣工後の橋上でおこった惨事であろう。昭和三十八年五月の豪雨でも岩田橋は流失している。そのようなことから永久橋設置の強い要望が地元から起こった。これを受け、旧橋より下手に新岩田橋が建設されることになり、昭和四十一年に橋竣工のための負担金を岩田財産区から出資している。同四十二年県道下川上牟婁線の開通に伴い岩田橋も三月に完成し、供用が始まった。長さ二五〇m、車道六m。〇.四mと0.四五mの歩道が両側にある。昭和五十八年には歩道の併設工事が完成した。