、●富田川に架かる上富田町の橋  

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生馬橋

生馬橋(昭和2年ころ)

生馬橋(昭和2年ころ)

 国道三一一号と県道上富田すさみ線を結ぶ橋であるが、もともとは生馬村の村内を結ぶ交通路であった。

 中松家文書の文政十一年(一八二八)「子御用留帳」(『上富田町史 史料編上』)五月七日の頃に「夜前大水故生馬口船渡り出来不申候二付・・・」とあるので、幕末になっても架橋していなかったことがわかる。

 『皇国地誌』生馬村の頃に「日本型舟二艘 生馬橋 生馬谷に通す 水深二尺余広二五間 橋二六間 幅一尺三寸 板橋 仮架なく」とあるので、明治初年には不十分とはいえ、生馬本村と生馬谷とを結ぶのは、二艘の「渡し船」だけでなく、簡素な三脚台橋の架設もあったことがわかる。明治十六年(一八八三)に生馬橋復旧のために朝来、生馬の両戸長連名の補助申請書を郡役所に提出し、長さ五四間(100m)、幅三尺(九〇cm)の板橋が七三余円で完成している。この橋は明治二十四年(一八九一)生馬村朝来村組合の設立によるので両村の共同管理にすることになっていたが、日頃入会地問題(詳細は『上富田町史 通史編』参照)で不満に思っていた生馬村が、明治三十四年(一九〇一)生馬橋架替問題(『上富田町史 通史編 史料編中』)で爆発し、裁判による闘争にまで発展し、大正十二年(一九二三)まで紛糾している。

 明治二十二年、二十六年のそれぞれの大水害で橋が流失。しばらく架橋はされなかったようである。「明治三十七年 長三〇間幅一間のもの富田川に架設せらる」(大正二年刊『郷土誌 生馬村』)とあるように、明治も末になってようやく本格的な架橋の動きが始まった。県の補助を得て同四十五年には長さ八八m、幅一・八mの板橋が工費一〇〇〇円で完成したが、大正四年、同五年、同六年と立て続けに破損復旧を重ねた。経費も嵩むこともあって「爾来年月を経るに従い大に頽廃し、現今更に架け換えの大設計をなしたければ、其の竣功を見ること亦近きにあるべし」(『郷土誌 生馬村』)と、本格的な橋の設置を念願するようになった。大正七年(一九一八)には川幅全体(堤防から堤防まで)にわたる長さ二五六m、幅二.三mの本格的な架橋があったものの、まだ板橋のままであった。昭和二年(一九二七)の架け替えの際にようやく板橋から土橋にかわった。幅員を三mに広げ、両岸に電灯をつけ、中央に対向車を避ける待避所が設けられたが、橋脚は

木造のままであった。水害で被害は受けたが、全面的に架け替えるほどではなかった。

 昭和二十年(一九四五)五月のアメリカ軍の空襲の爆撃で、退避所は大きく破壊された。その後も大型台風や洪水のたびに破壊修復を重ねた。昭和三十一年(一九五六)たび重なる洪水や橋脚の老朽化で橋が落下し、交通が途絶された。これを機に、永久橋架け替えの気運が高まり請願陳情の結果、同年着工が決まり、昭和三十二年三月竣工(四十八年三月)、長さ二五六m、幅員四.五mの曲弦ワーレン型鋼構橋が架けられた。総工費六七七三万円。その後の交通量の増加や車両の大型化、老朽化のため架け替えられることになり、平成九年着工、同十二年十一月から現在の橋の供用が開始された。総工費十五億円で、長さ二五八m、車道幅員六m、歩道は片側のみ三m幅となっている。