●富田川に架かる上富田町の橋  

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郵便橋(元 野田橋)

岩崎地区の郵便橋(昭和20年ころ)

岩崎地区の郵便橋(昭和20年ころ)

 国道四十二号に架かる全国的にも珍しい橋名の橋である。この橋名は、明治五年、郵便制度が本格化し、紀南にも郵便取扱所が開設され、郵便の取り扱い場所として、この地が選ばれたことに由来するという。この渡し場は今は特定できないものの、伝承されているように不動山と現郵便橋の間にあったのは間違いあるまい。当初は『皇国地誌』に「日本型船 二艘 五〇石未満川艜」とあるように、一般通行者と同様、郵便物も県営のこの「渡し舟」で逓送していた。やがてその渡し舟を廃止し、岩崎の野田から河原に板橋を架け郵便物を対岸に渡すようになったので、いつしかその橋を「郵便小橋」と呼ぶようになったのである。

 この「郵便小橋」の名は通称であったらしく、明治初期に作成された『皇国地誌』によれば、「野田橋」とある。これが当時の正式名称である。その野田橋は「保呂村、内ノ川村二通ズ」とあって、長さ二〇間(三六m)幅三尺(約一m)の「板橋仮架ナリ 熊野街道ナリ」と続く。

 明治大水害直後の明治二十三年頃に現在の橋より二〇〇mほど上流に幅七尺(二m)の板橋を架設した。この時から郵便橋という名称が正式に採用され、以後この名で通されることになるが、明治二十六年の史料には富田川橋とあるように、一般大衆に認識されるまでに少し時間を要した。ついで明治四十年(一九〇七)橋の架け替えがあり、一四尺(四.二m)に広げられた土橋であった。明治末期に設けられた土橋は『朝来村郷土誌』(大正四年刊)によれば、長さ一〇〇間(一八〇m)余りで西牟婁郡内一の橋だとしている。昭和二年(一九二七)には、幅四.二mの鉄桁土橋が完工した。

 昭和二十二年七月に豪雨で流失した郵便橋を工費二〇〇万円かけて復旧したが、戦後復興の真っ只中にあったからだろうか、木橋の土橋という、前代に逆行した工法でしか行えなかった。十月に竣工式が行われた。次いで昭和三十三年(一九五八)には幅五.五m、長さ一九二mの鉄桁コンクリート橋が総工費五千五百万円で完成した。この橋は相当堅牢に造られたのだろう。昭和五十年(一九七五)に二mの歩道が補追されるなど、さまざまな改良工事や補強工事がなされた。

 平成十年には大型車がスムーズに対向できるように幅十一mの拡幅工事が完成し、改修に改修を重ねたことから、五代目郵便橋は、六代目に引き継がれた。

郵便橋南詰に建つ橋の由来記碑

郵便橋南詰に建つ橋の由来記碑